【水戸】水戸の観光名所・名物ベスト100【観光・名所・名物】
水戸生まれ水戸育ちの生粋の水戸っぽたちが真面目に選んだ水戸100選
実は水戸では今でもあまり幕末の歴史については語りたがらないご老人も多いです。
それは幕末に、水戸藩内が天狗党と諸生党などの諸党派に分かれて、血で血を洗う抗争を繰り返していったのです。
江戸時代末期の、まだ生々しいぐらいの時代にお互いに殺し合っていたかもしれないという、非常にセンシティブにならねばならない話題が、幕末の水戸藩の歴史でした。
であればこそ、水戸人も知らねばならない歴史がここにあります。
明治になって尊皇派が維新政府を立てたために、なにかと悪役にされがちな諸生党ですが、ただ少し思想が違うだけで、どちらも水戸藩のためを思って争っていたのです。
しかし、その抗争の歴史があまりにも凄絶であったために、あまり語りたがらなかった諸生党の歴史も学ぶべきだと思います。
逆川緑地は水戸の中央を流れる逆川沿いに広がる細長い緑地公園です。
復元された笠原水道の岩樋や水戸神社、徳川光圀が立てた茶亭「漱石所」跡地などの史跡のほか、レンガのアプローチゾーンやピクニック広場、それから木道などが整備され、散策にはまたとない公園となっています。
斜面樹林からの湧水を利用して、アヤメ類やサワギキョウ、ミソハギなどの湿性植物が植えられています。野鳥や昆虫の観察もできます。
ダムについては昭和56年(1981年)に着工し,昭和61年(1986年)に完成した,水戸市が管理する上水道専用のダムです。
河川をせきとめるのではなく,約5キロメートル離れた那珂川で取水した水を導水管で運んで貯留している,全国的にも珍しい形式のダムです。
また広々とした敷地と水の景色はジョギングや散策にピッタリで、水戸でも有数の癒やしのスポットとなっています。
2023年のの7月2日に開館した「水戸市民会館」は、最新の水戸市民のためのイベントホールであり、ザ・ヒロサワ・シティ会館大ホールの1,514席を上回る2000席収容の大ホール通称「クロービスホール」を始めとして、ユービスドームこと中ホール、和室板の間や和風のやぐら広場やその上部のラウンジギャラリーなど、最新の設備が取り揃った文化施設です。
開館記念イベントとして狂言師・野村萬斎さんが狂言「三番叟(さんばそう)」を上演されるなど、早くも伝統文化の匂いのするイベントが開催され、「歴史と文化の街水戸」をアヒールするための施設である事が期待されています!
この近辺にある京成百貨店と水戸芸術館をあわせた3つの施設の愛称は「MitoriO(ミトリオ)」と呼ばれ、水戸の文化の中心として、さまざまなイベントやコンサート、文化事業が執り行われる予定となっています。
建築そのものも、和風と最新建築が入り混じったやぐら広場など、見どころも多く、芸術館と並んで水戸の観光名所となるのは間違いなしです!
水戸市の市街地の中にある大きな神社が水戸八幡宮です。
よく豆まきや4月15日の例大祭など大きな神事が行われるので水戸市では有名な神社です。ご利益は安産、子宝がとくに有名で、厄除け、家内安全、商売繁昌などの祈願祭も行われています。
水戸八幡宮本殿は重要文化財として指定されている見事な木造建築で、常陸の源氏の氏神として尊崇されてきた由緒ある神社です。
東照宮というと東照大権現たる徳川家康が祀られた日光東照宮が有名ですが、水戸にも同じく徳川家康を祀った東照宮があります。
水戸の藩祖である徳川家康の実子徳川頼房が創建し、以後、徳川秀忠の霊屋が建てられ、徳川歴代将軍を祀る神社となりました。
東照宮の周辺は古くから宮町として栄え、今も宮下銀座という商店街が付近に広がる、まさに水戸市民からは一般には「権現さん」として親しまれている神社です。
実は水戸は隠れた剣道の聖地だったりします。
近代剣道の祖となった北辰一刀流の直系の道場が水戸東武館であり、今もその技と精神を受け継いでいます。
また、幕末でもっとも恐れられたと言われる水戸藩の御留流となった秘剣「新田宮抜刀術」の技術も今に伝えています。
剣道や剣術に興味がある人は一度は訪れたいスポットですね。
藤田東湖は幕末水戸藩の学者であり、水戸学の思想的中心でもあり、また徳川斉昭の藩政改革に尽力した政治家でもありました。
それまでただの「学問」であった「水戸学」を国体に関わる「思想」として大成させたのが藤田東湖なのです。
また、彼はただの思想家というだけでなく、徳川斉昭の行なった藩政改革の中心人物として水戸の財政改革と逃散と人口減が当たり前であった水戸藩内の安定に活躍します。
精神的にも政治的にも水戸藩の支柱であった彼は、安政の大地震で母親を救って死亡してしまいます。
もし、彼がいきいいたら水戸藩はもっと別な道を歩めたかもしれません。
そんな気持ちが、今も東湖神社として祀られ、水戸人に尊崇されているのかもしれません。
那珂川や利根川など、茨城は鰻の名産地の一つですが、なんと水戸は「鰻の串」が名産品だったのを知っていますか?
水戸藩は御三家としての体裁を整えなければならなかったことや、『大日本史』の編纂事業などにより、万年財政難を抱えていましたが、それにともない藩士たちも「扶持米のお借上げ」などにより貧乏な藩士たちが多かったのです。
そんな貧乏藩士たちの大事な内職の一つが「鰻の串作り」でした。