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水戸の観光・名所・名物を巡ってみよう

徳川光圀

水戸を『御三家』にした水戸黄門のモデル


一大国家プロジェクト「大日本史」の編集者

水戸藩二代藩主。
なんといっても時代劇『水戸黄門』の主人公として全国的に知られている、おそらく水戸で一番有名な人物でしょう。もちろん『水戸黄門』はドラマであり、その元となった漫遊記は、すでにその元となった伝説が江戸時代からありました。
徳川光圀というとすでに存命中から名君という伝説がひろまっており、実際、『大日本史』という日本の通史(日本全体を通じた歴史)を編纂するという200年間にも及ぶ事業を行なっています。
また、いち早く朱舜水という中国出身の学者を招いて、儒学を藩内に普及させるなど文化事業において多大な功績を残しています。

一筋縄ではいかなかった『大日本史』の編纂

しかし、水戸徳川家は28万石に対してその中納言、徳川御一門という格式を保つために、すでに藩祖である先代頼房の時代から財政危機にありました。
そして国家の歴史の編纂というのは、本来国家の大事業として行われるものであり、本来ならば一藩の手に負えるような規模のものではありませんでした。この事業のために、水戸藩は財政の三分の一を費やしていたとも言われ、徳川光圀の代から水戸藩は凄まじい財政危機に陥っています。
このため領民の負担は大きく、実際水戸藩では数多くの一揆やその弾圧、領民の逃散などが起きていて、決して暮らしの良い国ではなかったのも事実です。

水戸の名を広めた地元愛

ではその財政破綻の原因ともなった光圀がどうして、『黄門様』として水戸で慕われるようになったのかと言えば、先の歴史事業により全国に藩士を派遣し、水戸藩の名が知られるようになったこと。また歴代藩主の中で光圀だけが水戸で生まれた事、水戸に長期間滞在していた事が挙げられるでしょう。水戸藩は、ほぼ藩主が江戸在住であっため、ほとんどの藩主がほぼ江戸にいたという事情がありました。

光圀が考える「御三家水戸」のブランディング

また、徳川五代将軍綱吉の時代には、水戸光圀は綱吉に対するご意見番のような形で、徳川家の長老格で様々な国政に対して参加してきました。

実はもともと『御三家』というのは、徳川本家、尾張徳川家、紀伊徳川家を表す言葉でした。その中に『水戸徳川家』と呼ばれるようになったのは、まさに光圀による国政参加の頃からです。
つまり、水戸の人間が『水戸は御三家』と誇れるようになった基礎を築いたのが、徳川光圀だったわけです。まさに『御三家水戸』のブランドと、それにふさわしい文化を作り上げたのが徳川光圀だったわけです。
水戸が今の茨城県こと常陸の国で特別な地位を持ったのも、このブランドと文化によるところが大きいのです。実際、歴代藩主の中で、水戸光圀の史跡は圧倒的に多く、それだけ徳川光圀の知名度と功績が大きかった事が伺えます。

住所310-0851 茨城県水戸市千波町3081
アクセスJR水戸駅南口より徒歩30分

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