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水戸の観光・名所・名物を巡ってみよう

水戸歩兵第二連隊

ペリリュー島で戦後昭和22年4月22日に至るまで死守命令を守り続けた連隊

茨城新聞社刊『水戸百年』より転載(許諾 みとの魅力発信課)

かつて水戸には日本でも最強と言われる第十四師団の中核である歩兵第二連隊の駐屯地がありました。

水戸市街地西側の渡里一帯に駐屯地があった歩兵第二連隊は、1874年(明治7年)東京鎮台歩兵第二連隊として軍旗拝受して創設されます。
この当時は、連隊本部は宇都宮の宇都宮城内に置かれています。

西南戦争に従軍後、駐屯地が1884年(明治17年)に連隊本部を宇都宮から佐倉に変更されるとともに、歩兵第二連隊第二大隊も佐倉へ移駐します。

その後、東京鎮台が改組して、新設された東京第一師団佐倉歩兵第三旅団隷下となり、日清日露戦争に従軍します。
さらに、日露戦争後の軍備拡張とともに1907年(明治40年)東京第一師団佐倉歩兵第三旅団隷下から、宇都宮第十四師団水戸歩兵第二十七旅団隷下に変更となり、ここに後世有名な「水戸歩兵第二連隊」が誕生します。
水戸歩兵第二旅団はシベリア出兵の折に従軍し、ハバロフスクに上陸します。

このとき第三大隊が「尼港事件」と呼ばれる、たった300名で赤軍パルチザン4,300名による大規模な住民虐殺事件で住民を守るために最後まで抵抗し玉砕しています。
その後、水戸第二連隊は日中戦争に参戦し、上海呉淞に上陸、第一次上海事変その後満州駐留、熱河作戦などに従軍、さらに永定河敵前渡河、保定会戦に参加し、十分に戦った後、1939年(昭和14年)に復員して水戸に駐留し、1940年(昭和15年)に満州駐屯任務に付きます。
水戸第二連隊が所属する第十四師団(照兵団)はその武勲によって「関東軍最強」の名を欲しいままにします。

茨城新聞社刊『水戸百年』より転載(許諾 みとの魅力発信課)

南洋で最も米軍を苦しめたぺリリュー島の守備兵たち

しかし、戦況が悪化していった1944年(昭和19年)、水戸歩兵第二連隊はパラオ諸島ペリリュー島の守備につきます。
このペリリュー島の戦いにおいて水戸歩兵第二連隊は、大本営の指示によりアメリカ軍の戦法についての研究を重ねておりました。

高崎歩兵第十五連隊、増援された第十四師団戦車隊ならび歩兵第十五連隊の一個大隊(第三大隊)とともに500にも及ぶ洞窟に坑道を縦横に掘り回して要塞化して、アメリカ軍と太平洋戦争史上に残る激戦を繰り広げ、抵抗を続けました。
ペリリュー島の戦いはアメリカ軍の最精鋭部隊である第1海兵師団が、史上唯一壊滅した戦いであり、アメリカ軍にとっては悪夢とも言える戦いとして戦史に遺されています。

かつて水戸には、アメリカ軍と壮絶に戦い、第二次世界大戦史上に名を刻む「関東軍最強」の連隊がありました。

 

 

戦後昭和22年4月22日まで続いた「ペリリュー島死守命令」

しかし、その戦いは戦後なお続いたのです……。

敗戦を信じることができないまま、ペリリュー島の守備隊の残存兵たちは「大本営の死守命令」を守り続け、昭和22年4月22日に同志の説得に至るまで、戦い続けたのです。

ペリリュー島に派遣された、約1万人の守備隊のうち、生き残り投降したのは34名。

玉砕さえも許されなかった、ペリリュー島の守備兵たちは、敗戦後も大本営の死守命令を守り続け、2年半も戦い続けたのでした……。

住所 〒310-0055 茨城県水戸市袴塚3丁目5
アクセス JR水戸駅より車で約12分