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「日本で初めての新聞は水戸藩由来」という仮説について掘り下げます!
インターネットの時代になっても、ニュースの情報源はまだまだ「新聞」が重要な役割を持っています。
今でも日々のニュースを新聞や新聞社の電子版で知る人は多いでしょう。
元々、「新聞」の語源自体は、中国の唐時代に地方の事件などを扱った『南楚新聞』に始まり、「新しく伝え聞いた話」を知るメディアを表す言葉として「新聞」という漢語自体が使われていました。
日本においてはこれまで、「初めての日本語新聞」は文久2年(1862年)1月発行の『官板バタビヤ新聞』であり、近代の新聞事業の始まりは明治3年(1870年)に創刊された『横浜毎日新聞』が始まりだというものが定説になっていました。
しかし、近年になって幕末当時に混乱を極めていた水戸藩の事業が少しずつ研究を進められるにつれ、『新聞』という事業が水戸藩により行われていたことがわかってきました。
そもそも、水戸藩は徳川斉昭が藩主になって以降、徳川幕府の体制を支持する門閥層(もんばつ)と徳川斉昭が重用した尊皇攘夷をかかげる新興武士層(いわゆる「天狗党」)に分かれていました。
さらに、天狗党の中でも急進的に水戸藩と幕府の改革を進めようとする『激派』と、比較的穏健で開国論を重視する『鎮派』にも分かれます。
『新聞』は、このうち尊王を掲げつつも開国論を重視していた『鎮派』によって進められていた事業です。
水戸藩における『新聞』とは、元々、海外情勢や江戸の各藩や世論の動静を聞き込み集めていた水戸藩士鈴木大が、同藩における『鎮派』の重鎮であった豊田天功にあてた『聞込』という書簡を元にしたものでした。
鈴木大は水戸藩でも海外事情に通じていた会沢正志斎の弟子であり、早くから蘭学を収めていた彼が送っていた『聞込』は、江戸の情報だけでなく広く海外事情にも通じていたものでした。
これを受け取って編集していたのが、水戸藩の『大日本史』を編纂するために建てられた彰考館の総裁である豊田天功でした。
彼は学者たちが集まった彰考館のブレインたちとともに鈴木大の『聞込』をもとに、その名も『新聞』と名付けた時事論を発行し、水戸藩の『鎮派』の人々に閲覧させたのです。
豊田天功は元々『国事記』と呼ばれる日本の国防論などを発行しており、それが徳川斉昭や水戸藩主たちの国防論や外交論の理論的バックボーンとなっていましたが、これに鈴木大によってもたらされる江戸の各藩の情勢や世論、そして海外事情などを含めて「新しく伝え聞いた話」として『新聞』と名付け、彰考館より発行したのです。
もちろん、後世のように民間に広く発行したわけではなく、水戸藩の首脳部や鎮派の面々だけに閲覧されたものですが、その内容は驚くほど世界情勢を捉えており、まさにその時期にアメリカで開戦した(1861~1865年)世界初の総力戦とも言える南北戦争についても、詳しく述べられていたものでした。
まさに現代の新聞の国際面と政治面を、当時最先端の知識人集団であった彰考館の面々が編纂したのですから、内容の充実面から言って、近代以降の「新聞」の雛形となったと言えるのではないでしょうか?
確かに、江戸時代には民間のための「かわら版」などが発行されており、これが新聞のルーツとも言われていますが、近代新聞の重要な役割として政治や国際事情を伝えて世論や思想のバックボーンを形成するという役割を考えれば、かわら版とともに近代以降の『新聞』の役割をになっていたと言っても過言ではないでしょう。
こうした『新聞』の内容と役割は、水戸学の思想的影響も受け継がれた明治政府にも受け継がれ、後に海外における『Newspaper(ニュースペーパー)』の翻訳語として『新聞』が使われ普及していった理由の一つとも考えられます。
日本における『新聞』の嚆矢として、文久2年(1862年)1月発行の『官板バタビヤ新聞』よりも早い、彰考館発行の『新聞』があったという説は、水戸人としては、ぜひ発信していきたい話題です。
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