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水戸の観光・名所・名物を巡ってみよう

水戸の観光とその歴史について

実は水戸は日本でも有数の古い「観光地」だったのです


水戸は日本でも有数の「観光地」だった!?


 水戸は観光地と言うよりも、県都というイメージが強い人も多いと思います。

 しかし、「水戸の観光・名所・名物を巡ってみよう」や「【水戸】水戸の観光名所・名物ベスト100【観光・名所・名物】」などの記事でも紹介しているように、水戸は日本でも有数の古都であり、関東の要衝でありました。

 実は観光地としての観光資源は、意外なほどたくさんあるのです。

 今回は、そんな「観光地としての水戸」の歴史についてご紹介します。

本来の意味での「観光」地であった水戸

 

 そもそも「観光」というのは、どういう意味を持つ言葉なのでしょうか?

 「観光」の語源は、中国の学問書『易経』にある一節「観国之光 利用賓于王」(国の光を観(み)るは、もって王の賓たるによろし)から生まれた言葉です。

 その意味は、「他国を旅して観察し、国の光(文物や政治、風俗など)を観察すれば、王に重用されるだろう」という翻訳になります。

 これが、他国に行って見聞を広めるという言葉となり、日本でも日本政府が昭和5年(1930年)に鉄道省の外局として国際観光局を創設され、その言葉が現在の意味に繋がります。

 そんな「観光」の起源とも言える記事が水戸にあります。

 吉田神社の記録『常陽式内鎮座本紀』『常陸二十八社考』によると日本神話の英雄ヤマトタケルが、ヤマト王権による東征の折に「この地(朝日山/三角山)で兵を休ませた」と言われており、その地に吉田神社が創建されたのです。

 また、『常陸風土記』には現在の水戸にあたる「那珂郡」の項目に「東北の粟川(那珂川)の両岸に、駅家(公共の馬屋や人の休息地)が置かれた。駅家の周りを河がめぐっていたので、『河内の駅家』の名がついた。駅家の南の坂の途中に泉があり、清い水がたくさん出る。曝井といひ、付近の村の女は、夏の月に集まって、布を洗って、日に曝して乾す」と現在の曝井とその近くの『河内の駅家』の記録が残っています。

 すでに『常陸風土記』が書かれた奈良時代の頃には水戸は関東から東北へと至る玄関口として「駅家」が整備されていたことがわかります。

 時代はくだって平安時代には源義家が後三年の役の折に東北征伐の補給をした盛大にもてなされたという「一盛長者」の伝説など、古くから水戸は東北への重要な補給地点であったことが伺えます。

 このように古代からは水戸は「みちのくの旅」への重要な休息・補給地点であり、実豊かな穀倉地帯であり、水運の拠点でもあった水戸は、まず「軍事的な要衝」として軍旅を支えていたことがわかります。

 ヤマトタケルも源義家も、水戸で補給と休息を整えながら、関東や東北の「国の光を観(み)て」関東平定や東北での戦いに備えていたというわけです。

宗教の巡礼地としての水戸

 

 人類最古に「観光」の起源とされるのは「聖地巡礼」と呼ばれる宗教的聖地への巡礼でもありました。最も有名なのは、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラが聖ヤコブの巡礼者を1000年以上にわたって受け入れてきた歴史があります。

 そういう宗教的意味合いでの寺社仏閣参詣は、日本でも盛んに行われ、日本における「観光」や「旅行」が現在に近い意味合いにおける起源にもなっています。

 その意味においても水戸は重要な「聖地」としての役割を持っていました。

 奈良時代の大同二年(807年)に開山された1200年もの歴史のあるお寺水戸大師六地蔵寺でしょう。古くから多くの仏教徒を集めたこの寺院は、平安時代から室町時代の物を中心に残っている文化財が3000点余にのぼり、関東では公的機関を除けば金沢文庫、足利学校に続く規模を誇っています。

 鎌倉仏教における重要な記録として鎌倉仏教の巨人日蓮が晩年に隠井の湯(水戸の加倉井市)に湯治に向かっている途中に招いてくれたことを感謝する手紙を加倉井の豪族波木井実氏に送っています。

 また浄土真宗では親鸞の弟子である『歎異抄』の編者の一人「河和田の唯円」が、水戸の河和田市に「唯円房道場」を開基し教えを説いて人々を集めました。 

 さらには時宗の遊行派総本山である清浄光寺が消失した折には、藤沢道場として総本山的役割を果たした神応寺(水戸市元山町)も存在し、様々な仏教の宗派の「聖地」として水戸が栄えていた事がわかります。

 神道においても、前述した吉田神社や佐竹氏が文禄元年(1592)、佐竹義宣によって馬場八幡宮から分祀され創建したのが水戸八幡宮であり、古くから神道の由緒ある土地でもありました。

学問の聖地となった水戸

 

 このように古くから宗教的聖地としても関東随一の規模を誇っていた水戸ですが、残念ながら江戸幕府の水戸藩が成立した頃、水戸藩の二代藩主徳川光圀による廃仏毀釈によって、仏教が衰えてしまいます。

 その代わりに勃興したのが、同じく徳川光圀によって編纂が始まった『大日本史』による学問の都としての水戸です。

 日本の歴史を再編集するという大規模な資料収集のために日本全国に派遣された水戸藩士や学者たちは、各地で「水戸黄門伝説」として伝えられ、それが有名な「水戸黄門漫遊伝説」となって、まさに今の観光ツアー形態とも言える『水戸黄門漫遊記』として成立するわけです。

 そうして集められた資料は水戸や江戸の彰考館に集められ、江戸時代の学者や知的好奇心旺盛な武士たちは、学問を求めて水戸に集まる事になったのです。

 実際、水戸街道には盛んに学者たちが往来していた記録が残り、そうした機運や知的財産として日本の国学としての「水戸学」が生まれて幕末に至ります。

 これを再興したのが水戸藩八代藩主徳川斉昭であり、彼は公立学問所として弘道館を設立し、また民衆たちとともに楽しめる観光地「偕楽園」を造園します。

 弘道館は江戸時代の藩校として、当時日本最大の規模を誇り、学問と武芸が学べる施設であり、また医学館では種痘や薬の製造などが行われ公立病院としての役割も果たしています。

 変わった話としては、医学館では栄養学的側面から牛が飼われ、日本ではまだ未発達な食文化であった飲用の牛乳やバターの製造などが行われていました。

 斉昭は「一張一弛」の思想の下、弘道館で学問に励み、偕楽園で物見遊山をするという観光ルートを作り、全国から学者や志士たちを集めたのです。

 幕末に水戸を訪れた志士たちは、有名な人物だけでも、吉田松陰、西郷隆盛、千葉周作、間宮林蔵など幕末維新で活躍する人物たちが綺羅星の如く集まっており、まさに江戸から水戸街道の終点であった水戸の地は「学問の都」として全国から人々を集めたのです。

幕末の混乱で失われたが今もその遺産は各所に


 残念ながら水戸は幕末に天狗党諸生党の争いで四分五裂してしまいますが、そんな中でも加倉井砂山や女性学者の嚆矢とも言える黒沢止幾など、全国的には知られていないものの、先駆的な人物が多数現れています。

 明治になると水戸街道に鉄道が整備され、徳川光圀が整備した千波湖と徳川斉昭の残した偕楽園は観光地として栄え、その土産物として「天狗納豆」が全国に知られるようになります。

 昭和・平成とTBS系列で放映された『水戸黄門』は国民的ドラマとなり、「水戸は行ったことはないけど名前は知っている」という人は多いと思います。

 現在は偕楽園だけでなく水戸芸術館茨城近代美術館茨城県立歴史館徳川ミュージアム、スポーツの水戸ホーリーホック茨城ロボッツなど、再び観光資源となる所が多数整備されています。

 東京からは北関東自動車道ですぐ。空路なら茨城空港から連絡バスで。「古代から観光地として有名だった水戸」を見直して、観光地としての水戸の魅力を味わいに来てみませんか?




※取材時点の情報です。掲載している情報が変更になっている場合がありますので、詳しくは電話等で事前にご確認ください。

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