地元暮らしをちょっぴり楽しくするようなオリジナル情報なら、水戸市・ひたちなか市の地域情報サイト「まいぷれ」!
文字サイズ文字を小さくする文字を大きくする

水戸市・ひたちなか市の地域情報サイト「まいぷれ」水戸市・ひたちなか市

水戸の観光・名所・名物を巡ってみよう

大日本史

水戸藩が藩の財政を傾けながら249年、紀伝体による巨大な日本の通史

弘道館所蔵の大日本史

『大日本史』は水戸藩二代藩主徳川光圀の命によって作られた「紀伝体」による、日本の通史です。
「紀伝体」とは、古代中国の司馬遷著の『史記』によって完成された歴史書の形態の一つで、
皇帝や王などの支配者に関した出来事を記した「本紀」
諸侯や代々祭祀を受ける家系の出来事を記した「世家」
個々の人物、特に国に仕えた官僚の一生を記した「列伝」
天文・地理・礼楽・制度など、分野別の歴史を記した「志」
各種の年表や月表や官職を記した「表」
 を中心とした記述で編まれる形態です。
 これに対応するのが年度別に出来事を記した「編年体」がありますが、『大日本史』は紀伝体によって記された日本の歴史書です。
内容は、歴代の天皇について記した本紀73巻、后妃・皇子・皇女とほぼ年代順に配列された群臣の列伝170巻、志と表154巻、全397巻226冊(目録5巻)計402巻からなる膨大な歴史書です。

あえて紀伝体を選んだ大日本史

徳川光圀は水戸藩の世子時代から、日本の歴史を編纂する必要を感じ、個人的に史局を作って資料などを集めさせていました。
そして水戸藩の藩主となった1672年に正式に大日本史の編纂させるための史局として「彰考館」を作り本格的に編纂事業を開始します。
大日本史の大きな特徴は、それまで存在していた日本の通史が、『日本書紀』や『続日本紀』や幕府が編纂していた『本朝通鑑』などのように編年体として編纂されていたのに対して、あえて『紀伝体』を採用したところにあります。
歴史を学んでいるとわかりやすいのですが、編年体は時系列がたどりやすいという特徴がありますが、個々の事件や人物や時代の雰囲気を追うためには紀伝体が適しているという利点があります。
しかし、それだけに資料収集や史観の置き方が難しく、歴史書を編纂するには異常に人手と時間がかかるという国家的大事業となります。
実際、水戸藩では、その財政の三分の一が費やされたと言われ、表高35万石で御三家の格式を保たねばならず、さらに江戸に藩主と藩士が常駐しているため、常に財政の苦しかった水戸藩としては無謀とも言える事業でした。

何度も挫折や紆余曲折を繰り返した大日本史

実際、水戸藩では1737年にその中心人物であった安積澹泊が没して以降、ほぼ半世紀に渡って有名無実化します。
これを立て直したのが1786年に彰考館総裁となった立原翠軒であり、1799年の徳川光圀百年忌までに『大日本史』を完成させようと、志と表の省略を試みます。
さらに問題として『大日本史』という題名が朝廷からの認可を受けていないものに国号をつけるのは光圀の意向に沿わないとして『史稿』に改めるべきという立原翠軒の高弟である藤田幽谷との間に意見の相違がでます。

また藤田幽谷は志と表の編纂中止にも反対しています。これについては、江戸の彰考館と水戸の彰考館の対立問題にまで発展します。
これに六代藩主の徳川治保も同調し、立原翠軒は官職を退き『大日本史』は一旦『史稿』と改めて、藤田幽谷主導のもとで編纂が続けられます。
この後、1809年に書名の件を朝廷に打診したところ、「旧によりて大日本史と号して可なり」と勅許を得たため、再び書名は『大日本史』と改められます。

完成したのは明治になってから

これより前に1808年には幕府より『史稿』の版本を提出するよう指示があり、翌年には催促されるようになります。このため本紀が優先的に編纂され、なんとか1809年にには『神武紀』から『天武紀』までの本紀26巻が幕府に献じられ、1810年には藤田幽谷の上表文を添えて朝廷にも『大日本史』として献じられます。
しかし、その後の献上は遅れに遅れ、残りの172巻を幕府と朝廷に献じられたのは1852年となってしまいます。
さらにその間、志と表については遅れに遅れ、藤田幽谷の門人豊田天功が天保期から安政にかけて、仏事志、食貨志、兵志、刑法志が脱稿しますが、その後の水戸藩の幕末の騒乱によって一旦停止してしまいます。
そして明治2年以降は栗田寛、菅政友らによって事業が引き継がれ、職官、氏族、礼楽、神祇、陰陽、国郡の各志と、公卿、臣連二連、国郡司、蔵人検非違使、将軍僚属の各表が執筆され、校訂と出版が行われます。

そして明治39年、徳川光圀の編纂事業の開始からなんと249年を経て『大日本史』397巻、目録5巻の計402巻が完成するのです。

『大日本史』の歴史的評価


『大日本史』は戦前の水戸学から始まるいわゆる「皇国史観」の元凶として、戦後かなり長い間「歴史的資料価値はない」と言われてきた時代がありました。
しかし、水戸藩が『大日本史』を通じて集めた資料や逸話や説話などは、江戸時代を通じて「水戸藩の書庫にいけばなんでもある」と言われたほど価値の高いものであり、また紀伝体特有の「志」と「表」は史観とは無関係に大変に日本史を語るにあたっては欠かせないものであると見直されてきています。
『大日本史』はほぼ日本唯一の紀伝体による日本史であり、紀伝体特有の人物や時代の流れを掴みやすい書物であり、史観はともかくとして「日本はこのようにして動いてきた」と学ぶのに好適な資料となっています。
また、『大日本史』編纂をついじて集められた資料や収集された逸話や説話などは数知れなく、編纂事業の副産物として様々な書物にまとめられています。
水戸藩が249年の時間を費やした『大日本史』は、決して無用の長物ではなく、江戸期を通じて集められた「日本の歴史」はそれ自体が価値を持つものとして日本の歴史が見直され続けている現代こそ、再評価すべき書物と言えるでしょう。

住所〒310-0011 茨城県水戸市三の丸1丁目6−29
アクセスJR水戸駅より徒歩で約9分

人気のキーワード