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寛永通宝(水戸銭)

江戸の銭として有名な寛永通宝は水戸で生まれた!

寛永通宝と呼ばれる江戸時代を通じて流通した銭貨が、水戸藩で作られていたのをご存知でしょうか? 

徳川家光の代まで江戸幕府では銀座や金座などを作って金銀の貨幣を発行していましたが、銅銭に関しては、京都を中心に流通していた「京銭」の通称で呼ばれていた鐚銭(びたせん)という私鋳銭を幕府の標準銅貨としていたなど大雑把なところがありました。

徳川家光が慌てて制定した「寛永通宝」は水戸出身!

しかし、家光の代になると京都の銅銭がオランダ・ポルトガルなどのヨーロッパの商船や日本の朱印船によって中国や東南アジアに輸出されており、銅銭の大量輸出によって日本国内においては深刻な銅銭不足をもたらして銭相場を上昇させてしまいます。
これに衝撃を受けた徳川家光は、1626年(寛永3年)に常陸水戸の富商・佐藤新助が、江戸幕府と水戸藩の許可を得て鋳造していた私鋳銭、いわゆる「寛永通宝」を1636年(寛永13年)に公鋳銭として採用します。
なんと、江戸期を通じて通用していた「寛永通宝」は水戸出身の貨幣だったのです。

晴れて江戸幕府の公鋳銭になった水戸銭

その後、「寛永通宝」は公鋳銭として幕府の江戸と近江坂本の銭座が設けられますが、続いて水戸藩、仙台藩、松本藩、三河吉田藩、高田藩、岡山藩、長州藩、岡藩などでも幕府の許可を得て銭座を設けて鋳造しされることになります。
これは1640年(寛永17年)ごろまで鋳造が続けられ、やがて寛永通宝が国内に普及し、銭相場が安定すると、銭相場の下落を防ぐために鋳造が停止されます。
この頃に鋳造された寛永通宝は「古寛永」と呼ばれ、水戸で鋳造されたものが数多く遺されています。

古銭マニアの間では特徴のない「古寛永」は水戸か仙台を疑えというほど、水戸藩と仙台藩では盛んに鋳造されたのです。
徳川頼房徳川光圀の代では領内の大整備を行ない、さらに徳川光圀が『大日本史』の編纂事業を始めても、徳川光圀の代までは財政が安定していた理由の一つに、水戸藩で鋳銭事業が行われていたことが大きな要因として挙げられるでしょう。

住所〒310-0812 茨城県水戸市浜田1丁目6−33
アクセスJR水戸駅南口より車で約8分

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