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水戸の観光・名所・名物を巡ってみよう

諸生党

政治的の立場から殺し合うことになった弘道館の学友たち

尊王攘夷派であった天狗党は、その後、明治維新が起きたこともあって、同情的に書かれる場合がありますが、それと対立した保守派の諸生党については大きく取り上げられることさえありません。
諸生党が党派として成立したのは、天狗党の挙兵に対して水戸藩を防衛するために市川弘美が尊攘派の鎮派と呼ばれる勢力と連携して「諸生党」を名乗った事に始まります。

弘道館のエリート同士であった「諸生党」と「天狗党」

「諸生党」とは弘道館の書生たちが集まったことに由来するように、実は保守派である彼らも徳川斉昭の作った藩校の弘道館で学んだ藩士たちが中心だったのです。
つまり門閥派とはいっても、徳川斉昭の藩政改革で作られた弘道館で学んだエリートたちであり、思想は異にするものの天狗党も諸生党も、かつては弘道館でともに学んだ学友たちだったのです。

水戸藩の内乱の悲惨さは、他藩のように門閥上士が佐幕派で、下士たちが尊攘派になるという階級闘争でなかった所に悲劇性があると言えるでしょう。

彼らは生まれ持った階級として憎しみあったわけではなく、ともに机を並べて学んだ藩士たちが自分たちの思想や政治的立場の違いで対立することになったわけです。

 

 

憎しみは憎しみしか呼ばないことがわかる水戸の幕末史

しかし、「戊午の密勅」事件以来、その「政治的立場」というものは水戸藩に置いてはまさに死命を決するものになっていってしまったのです。
彼らは政治的立場から殺し合い、そして殺し合うことによって憎しみが積み重なり、復讐に復讐を重ねることによって、もはや政治的立場も思想もどうでもよく、彼らはただの感情的生物と化して殺し合うだけの存在になってしまうのです。

その悲愴さは諸生党の首魁であった市川弘美の言葉に残されています。

『君がため捨つる命は惜しまねど
 忠が不忠になるぞ悲しき』

明治後も続いた水戸のテロリズム

諸生党が政権を握れば天狗党は家族までも殺され、天狗党が政権を握れば諸生党が家族までも殺されました。
それは明治後まで続き、憎しみ合い殺し合うだけの生き物と化してしまった水戸藩士たちは、明治政府でも登用される余地が残っておりませんでした。

そして、それがさらに憎しみを呼んで、明治後に至っても殺し合うようになってしまったのです……。

このため水戸の幕末から明治にかけての歴史は、水戸人たちでさえも語りにくい歴史となって言ってしまったのです。

この石の正体は慷慨淋漓の碑拓本附台石(こうがいりんりのひたくほんつけたりだいいし)弘道館戦争の十七回忌に際し、元会津藩主松平容保の篆額による諸生党慰霊碑でしたが、空襲で破壊されてしまいました。

天狗党と諸生党はともに水戸の歴史として、どちらも並べて語られるべき存在なのです。

住所〒310-0032 茨城県水戸市元山町1丁目2-64
アクセスJR水戸駅北口より車で約7分