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市川弘美

悪役にされる事も多いが諸生党の首脳にして忠義の武士

市川弘美は市川三左衛門として知られ、1816年(文化13年)市川家1000石の次男として生まれます。

小納戸頭や小姓頭、馬廻頭、大寄合頭等の要職を歴任し、天狗党と対立する門閥派、いわゆる「諸生党」として頭角を現します。
天狗党と諸生党は互いに殺し合うことも多く、根深い対立として知られていますが、どちらも弘道館出身の武士たちであり、同窓の者も多かったと伝えられます。
水戸藩が幕末における勤王派の思想的中心になったため、幕府は盛んに水戸藩の諸生派の支援などの工作や圧力などを盛んにかけています。

そのため、水戸藩は天狗党と諸生党というだけでなく天狗党内にも鎮派と激派に分かれるなど、それぞれの党内でも分裂するほど激しい政治的混乱状態となります。

天狗党との対立そして天狗党の乱

そんな中で曲がりなりにも諸生党をまとめ上げ、天狗党の乱に対処して討伐を主導した彼の手腕はもっと評価されるべきでしょう。

ただ、天狗党の乱の終息とともに見せしめのために天狗党の家族や関係者などを350名以上処刑したのはやりすぎだったのかもしれません、ただ徳川慶喜や幕府からの有形無形のプレッシャーがあったのも確かでしょう。
彼は大政奉還後も節を曲げず、戊辰戦争においては奥羽・越後各地を転戦して官軍と戦っています。

さらに会津が落城すると、再度水戸へ戻り、藩校弘道館に拠って水戸城に拠る朝廷の威光を背負った天狗党と戦闘に及んでいます、これがいわゆる弘道館戦争です。
しかし、市川自身も二人の子息を失うなど多数の死傷者をだして下総方面へ敗走し、銚子や匝瑳にて追討されています。

壮絶に続く天狗党と諸生党の戦い

その後、彼は江戸市中の寺院や旧友宅に潜伏したが、1869年に藩の捕吏に縛されて水戸へ移送され、水戸郊外の長岡原で逆さ磔の極刑に処された。墓所は水戸市の祇園寺にあります。

なお同寺には諸生党士側の慰霊碑があります。
水戸収監後、過酷な拷問にあったものの、痛みを知らぬほど全く音を上げなかったという剛毅な人物であり、極刑前に最期の希望を問われると鰻飯を所望し、給された鰻飯を食べたというほどの胆力の持ち主でした。
極刑が執行される際、市川は「勝負はこれから。」と叫んだと伝えられるほどの節義の人物であり、水戸藩がこれほどの政治的混乱がなければ、大人物として明治政府でも活躍できた人物であったに違いありません。
明治政府が勤王派であったために、天狗党の一族を数多く処刑した彼は悪役にされがちですが、一切の節義を曲げなかったあたり、彼も一個の忠義の武士であったのです。

 

それは彼の辞世という句にも表れています

 

「君がため捨つる命は惜しまねど
 忠が不忠になるぞ悲しき」

住所 〒310-0065 茨城県水戸市八幡町11−69
アクセス JR水戸駅北口より車で約7分

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