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天狗党

幕末の先駆けとなりながら自滅していった水戸の悲劇

天狗党が押し込められた鰊倉(にしんぐら)は現在水戸市に移築され「回天館」としてその悲劇を伝えています

天狗党というと「天狗党の乱」があまりにも有名であり、天狗という名前がそこから来ていると思われがちです。

ですが、それ以前から徳川斉昭の藩政改革の歳に登用された、戸田忠太夫、藤田東湖、安島帯刀、会沢正志斎武田耕雲斎、青山拙斎らの下級武士階級から取り立てられた者たちが門閥上級藩士たちに言われていたようです。

彼らは、皆優秀な人物でしたが、一方で水戸学を修めた尊王攘夷派の藩士たちであり、かなり思想性の強い集団でした。

天狗党の名の由来のエピソード

下級藩士から取り立てられた彼らが藩政の主導権を握ったことも、さらに斉昭が幕府の参与となって幕府の改革に乗り出すとともに、幕政にも口を出すようになった事が門閥武士たちには気に入らなかったのでしょう。

こうした改革派の藩士はいつしか「天狗ども」と呼ばれるようになったといいます。
一説によると、尊皇攘夷派たち会合のとき「もしも京都と幕府との間に不調和な事態が生じたら、いったいわれわれは、京都(天皇)と江戸(幕府)とのどちらにつくべきか」という議論になり、そのとき、彼らの代表である藤田東湖が「京都についた方がこれだよ」といって、鼻の頭にこぶしを重ねて天狗のまねをした事が由来とも言われています。つまり天狗(鼻が高い)という意味です。

地震によって早すぎる死を迎えた天狗のリーダーたち……

こうした、尊王攘夷色の強かった水戸の改革派ですが、それでも藤田東湖や戸田忠太夫といった斉昭のブレーンたちが健在であった時期は、穏健な藩政や幕府の改革派であったようです。
しかし、1855年(安政2年)の江戸地震により名実ともに水戸の尊王攘夷武士の精神的理論的指導者であった藤田東湖や戸田忠太夫たちが圧死してしまったのは不運というしかありません。
また、1858年(安政5年)「戊午の密勅」事件と言われる幕政改革と攘夷を断行せよという密勅が、天皇から幕府を通さず水戸に直接降下するという江戸幕府始まって以来の異例の事態が起こると水戸の藩論は真っ二つに分かれます。

「激派」と「鎮派」に分かれた「天狗」たち

「戊午の密勅」については門閥派の藩士たちが幕府に返納すべきと説いたのは当然として、改革派の「天狗」たちですら、幕府に返納して幕政改革を行うべしという穏健派の「鎮派」と、水戸に降下した詔勅は断固として水戸藩が奉ずべきという「激派」に分かれてしまいます。
この「戊午の密勅」や斉昭の子である一橋慶喜を巻き込んだ14代将軍をめぐる「将軍継嗣問題」などを断固解決すべく、強硬派の井伊直弼が大老に就任し、いわゆる「安政の大獄」と呼ばれる弾圧事件が起こります。
よく誤解されていますが「安政の大獄」は決して開国派と攘夷派の争いによるものではなく、その焦点は「戊午の密勅」と「将軍継嗣問題」における幕政改革派の弾圧を目的としたものです。

安政の大獄でブレーキを失う天狗たち

この安政の大獄で徳川斉昭が永蟄居、水戸藩主徳川慶篤、14代将軍候補であった一橋慶喜が蟄居させられてしまうと、藩内の統制はまったく効かなくなってしまいます。
「戊午の密勅」を巡って、門閥派、天狗の「鎮派」、天狗の「激派」の間で、暗殺、テロ、切腹などの流血事件が無数に起きています。
すでに水戸藩の内乱と流血はすでに起きていたのです。
そして、脱藩した「激派」による「桜田門外の変」において大老井伊直弼が斃され、安政の大獄は終息します。こんな中で、水戸は斉昭が病死し、蟄居を解かれた藩主徳川慶篤が復帰します、幕府が水戸藩に向けて監視を強めるとともに「鎮派」の官僚が罷免され、一方で武田耕雲斎ら「激派」の指導者層が登用されます。

過激化する天狗たち

水戸はこの時点でもなお、激派の指導者層に桜田門外などによる脱藩激派の沈静化させようとしたのです。

しかし、激派はそれでも収まらず水戸脱藩浪士たちは、イギリス公使館を襲撃した東禅寺事件やテロを起こしてしまいます。
その結果、「鎮派」の家老たちが復職しますが、かえって過激派の行動は過激化し、とうとう「坂下門外の変」によって老中安藤信正に危害を加えてしまうのです。
これにより水戸藩は「鎮派」、「激派」ともに藩政から遠ざけられ、「諸生党」と呼ばれる門閥派の上級藩士たちが藩政を握ることになります。
このように水戸藩はただ「尊王」と「佐幕」に分かれていたわけではなく、尊王攘夷派の中にも「鎮派」と「激派」に分かれ、さらに激派の中でも武田耕雲斎ら慎重派と、脱藩浪士などの過激派に分かれていたのです。

混乱を続ける幕府と翻弄される水戸藩

水戸藩による「桜田門外の変」や「東禅寺事件」や「坂下門外の変」は、完全に江戸幕府の面子と政権の脆弱さを全国に知らしめてしまう事になります。

それを起こしたのが、全国から多くの藩士たちが藩政改革と水戸学思想を学びに集まっていた水戸藩であったのも大きいでしょう。
水戸藩の尊王攘夷派と幕府派の分裂が全国に波及し、いわゆる「幕末の風雲」が幕を分けてしまうわけです。
しかし、水戸藩はすでに「幕末の風雲」と言えるような状態ではなくなっていました。

門閥藩士の「諸生党」が藩政を握り、天狗たちの弾圧を強めるとともに、さらに尊皇攘夷派も「鎮派」と「激派」、激派の中も藩内の改革を目指すものと、朝廷や長州と手を握って倒幕に傾く者など、果てしなく藩論が分裂して、弾圧と内乱とテロの連鎖が続くのです。

江戸幕府だけでなく京都朝廷の政争にも介入

そんな中、今度は長州藩と土佐藩の朝廷工作によって朝廷が攘夷に傾くと、水戸藩も天狗の「激派」が勢力を増し、武田耕雲斎らが執政となり政権を握ります。

さらに、将軍後見職となった一橋慶喜が京都に上洛する際に出身である水戸藩の藩主徳川慶篤に上洛と協力を求めます。
このとき上洛したのが後の天狗党の乱の主導者となる武田耕雲斎、山国兵部、藤田小四郎などでした。

つまりこの時の水戸藩は再び尊皇攘夷の改革派である「激派」が勢力を取り戻した時期になるのです。
ところが、1863年(文久3年)に「八月十八日の政変」と呼ばれるクーデターによって、薩摩藩と会津藩が手を結び朝廷から長州の勢力を一掃します。

この時点で尊王攘夷派であった一橋慶喜は軍事力の背景として、水戸藩にさらなる協力を求めて200-300人の藩士を上洛させるのです。

直接に言えば、これが天狗党の乱のきっかけとなります。

天狗党の乱とその後も続く惨劇

幕府内の混乱により攘夷が果たされない事と、朝廷から長州系公卿や長州藩が一掃された事に危機感を抱いた藤田小四郎ら水戸藩の激派は非常手段をとることを決意します。

小四郎は北関東各地を遊説して軍用金を集め、1864年5月2日(元治元年3月27日)、筑波山に集結した62人の同志たちと共に挙兵します。

これがいわゆる「天狗党の乱」の始まりです。
突然の挙兵に驚いた水戸藩主徳川慶篤は、山国兵部らを説得に向かわせますが彼らは逆に説得されてしまい、担ぎ上げられてしまいます。

さらにこの挙兵に各地から尊王攘夷派の浪士や農民らが集まって、天狗党は1400人もの大集団に膨れ上がります。
一方、天狗党に対して水戸城下においては、保守派の市川弘美が鎮派の一部と結んで諸生党を結成し、藩内での激派を排除し始めます。

天狗党と同調して長州藩も挙兵

こうして完全に内戦状態に陥った水戸藩内ですが、7月19日には筑波勢の決起に呼応して、長州藩尊攘派が武装上洛し、会津藩や薩摩藩の兵らと京都市中で交戦します。

これが有名な蛤御門の変、別名禁門の変です。
天狗党と長州藩尊攘派は、その経緯や時期から見てからほぼ通じ合って挙兵を断行したと見てもいいでしょう。天狗党の乱についての詳細は別項目で解説しますが、そもそも天狗党の挙兵は一橋慶喜の尊攘派としての政治活動に水戸藩を協力させていたために起こった行動でした。

彼らは一橋慶喜を奉じるために、関東で戦い、さらに武田耕雲斎らが加わって3000名もの大人数で京都へと西上を始めます。

しかし、お世辞にも天狗党の軍事行動は統制が取れたものとは言えず、天狗党は各地で略奪や虐殺を行ない、完全なならず者集団に成り果ててしまいます。

徳川慶喜による幕末史上最大のジェノサイド

しかし、これに対して一橋慶喜は徹底した弾圧を命じます。

彼らは一橋慶喜が自分たちの意見を聞き届け攘夷断行してくれると西上しながら転戦しますが、一橋慶喜が幕府追討軍を率いている事が判明し力尽き、敦賀の地で投降します。

これに対して幕府は天狗党が関東で起こした惨禍に激怒して、徹底した処罰を与えます。
藤田小四郎ら一部の幹部達を除く者共には手枷足枷をはめ、下帯一本にされ、一日握飯一つと湯水一杯のみを与えるだけでした。

腐敗した魚と用便用の桶の異臭が籠る狭い鰊倉(にしんぐら)の中に大人数が押し込められたため衛生状態は最悪であり、厳寒も相まって20名以上が死亡しています。

その鰊倉は、今も水戸の回天神社に残され、その惨状を今に伝えています。

さらに投降した天狗党員828名のうち、352名が切腹も許されず斬首されています。

さらに水戸藩では市川弘美ら諸生党が中心となって天狗党の家族らをことごとく処刑しています。
まさに幕末を通して最大のジェノサイドであったと言えるでしょう。

水戸と長州の処罰の違いが明暗を分ける

一方で蛤御門の変で挙兵した長州は第一次長州征伐で降伏していますが、三家老の切腹のみで許されています。

これを見てもいかに天狗党に対する処罰が異常だったかがわかります。

このことが長州と水戸の幕末と明治における明暗を決定的に分けたと言っても過言ではないでしょう。
しかし、このあまりにも巨大な犠牲は、これで終わりにはなりませんでした。

 

大政奉還の後からが本当の地獄だ……

時代が下って大政奉還が起きて王政復古の大号令がくだされると、天狗党の残党に水戸藩を掌握させるよう詔勅を下します。

天狗党の残党たちは、かつての報復として諸生党の家族をことごとく虐殺しています。
これに対して水戸藩を脱出した諸生党は、戊辰戦争において北越戦争や会津戦など等に参加して転戦しています。

そしてこれらの戦いが維新政府の勝利に終わると、諸生党の残党たちが集結し、戊辰戦争に参戦していた水戸藩を奪還しようとします。

その数は500人とも1000人とも言われる規模でした。

他国にはほぼ知られていない『弘道館戦争』

彼らは弘道館を占領し、急遽帰還した水戸藩兵と交戦する弘道館戦争と呼ばる戦役が発生するのです。

かつて学問の府であった弘道館は、諸生党も天狗党ともに弘道館で学んだものたちも多いのにもかかわらず、互いに憎しみの連鎖によって殺し合ったのです。
その結果、水戸藩が勝利し、諸生党は敗走を続け、下総八日市場の戦い(松山戦争)で壊滅します。

諸生党の残党は市川弘美が水戸郊外の長岡原で逆さ磔の極刑に処されたのを始めとして、惨殺されます。

明治後まで続いた水戸の憎しみと殺し合いの惨禍

この諸生党の弾圧やそれに対する復讐は明治以後も続き、今も水戸では身内の争いが「天狗」と呼ばれるほどの、水戸にとっての暗黒の歴史となっていったのです。
ただの尊王攘夷派と開国佐幕派の争いに見られがちな幕末史ですが、水戸藩だけでも一ヶ月単位で藩論が代わり、また尊王派も佐幕派も様々な派閥に分かれていたのです。

けっして単純な二元論で片付くような戦いではなかったことをわかっていだたくために、あえて長々と経緯を書かせていただきました。
天狗党の挙兵も、決して無謀な尊王攘夷派の挙兵ではなく、当時の政治情勢の中で翻弄された末の挙兵であり、さらに大きな政治的影響を与えた挙兵であったことを伝えていきたいと思います。

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