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徳川慶喜

期待され期待とは違った道を歩んだ「最後の将軍」

もしかすると水戸に関係する人の中では水戸黄門こと徳川光圀の次に有名な人物かしれません。なにしろ徳川幕府の十五代将軍である「最後の将軍」として大政奉還を行ない、その事は日本史の歴史の教科書には必ず記載され、誰もが習うことだからです。

期待された若き才能

すでに名君のほまれ高かった徳川斉昭の実子として生まれ、その英才を早くから発揮し、斉昭も実子の中でもっとも期待した子として、彼は一橋家に養子に出されます。
すでに一橋家に養子に出された時点で彼は、徳川十四代将軍としての道を歩み始めたのです。間違ってはいけません、十五代将軍ではなく十四代将軍です。
ほぼ子をなす能力がなかった徳川家定の次代の将軍として御三卿の一つである一橋家の養子にわざわざ送られた時点で、すでに十四代将軍への道は約束されていたようなものでした。

平和な江戸幕府もとうとう分裂!?大混乱の幕開け

しかし、尊皇攘夷思想をかがける徳川斉昭を快く思わない幕府内部の勢力も多く、彼らは紀伊の徳川慶福を十四代将軍として擁立します。
その結果、「慶福派」と「慶喜派」の二大勢力に分かれ、これによって日本の国論は完全に二分されます、その結果、大老となった井伊直弼によって強引に慶福が徳川家茂と名を改め十四代将軍として擁立され、慶喜派は「安政の大獄」によって弾圧されます。その後、井伊直弼が「桜田門外の変」によって暗殺されたため、幕府はかつての勢威を失い、ついに幕末の大混乱の時代が始まってしまうのです。

「御家」をとるか?「御国」をとるか?

すでに徳川慶喜はその前半生から「最後の将軍」になるために生まれてきたようなものだったのかもしれません。
彼は十四代将軍家茂の病死後、十五代将軍となりますが、その時点ですでに幕府の威勢を衰えており、また徳川慶喜自身も、第三次長州征伐を言い出したり、それを引っ込めたり、突然大政奉還をして、その後鳥羽伏見の戦いでは戦争を蜂起して逃亡するなど、現在に至るまで疑問の多い行動を取り続けます。

いい意味で捉えるなら日本の内戦を最小限に抑える行動、悪い意味で捉えるならは徳川家の当主としての責任放棄と今に至るまで評価の定まっていない人物です。
果たして彼の真意はどこにあったのか? その事は未だに謎めいたままですが、日本史に最大級の足跡を残した水戸出身の人物である事は間違いありません。

住所310-0021 茨城県水戸市南町3-5
アクセスJR水戸駅北口より徒歩20分

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