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水戸の観光・名所・名物を巡ってみよう

藤田東湖

水戸の大学者にして幕末日本の牽引者

藤田東湖といっても、よほどの歴史好きか水戸について詳しい人でないとピンとこない人が多いでしょう。
彼は水戸藩九代藩主徳川斉昭によって取り立てられ、水戸学の大成者として大学者の名を欲しいままにします。

水戸学は「学問」から「思想」へ

水戸学と言っても、よくわからない人も多いでしょうが、ようするに尊皇攘夷思想によって、全国を一つにして列強諸国に対抗できる日本国家の創成するという思想です。

徳川光圀の代から続いた「大日本史」の編纂事業は、それまで江戸時代の人のほとんどが知らなかった「日本の中心は徳川将軍ではなく、京都の天皇であった」という事を『発掘』してしまいます。

その結果、日本には天皇こそが本当の日本の統一された国主であるという「尊王思想」が生まれ、幕末には制度が限界に来ていた幕藩体制に変わる国体として全国に広まっていきます。
それまでただの「学問」であった「水戸学」を国体に関わる「思想」として大成させたのが藤田東湖なのです。
また、彼はただの思想家というだけでなく、徳川斉昭の行なった藩政改革の中心人物として水戸の財政改革と逃散と人口減が当たり前であった水戸藩内の安定に活躍します。

 

つまり思想だけでなく実際の為政者としても有能であり、水戸藩はこの人物によって全国的にも先進的な藩としての地位を確立したと言ってもいいでしょう。

安政の大地震により死去、母を守ったエピソード

しかし、彼は1855年に発生した安政の大地震によって死去してしまいます。その時、彼は一度は脱出しているのです。しかし、火鉢の火を心配した母親が再び邸内に戻るとその後を追い、落下してきた梁から母親を守るために自らの肩で受け止め、母の脱出を助けて、無事を確かめたまま力尽きてしまいます。
その死に様から、まさに儒教のいう孝子として讃えられ、親孝行をあらわすエピソードとして残ります。

東湖死後の水戸藩

しかし、彼の死後、片腕を失った徳川斉昭は政治力が衰え、そして水戸藩も尊皇攘夷を唱える『天狗党』と幕府を支える『諸生派』に分裂し、天狗党の乱に代表される内乱と内紛を繰り返します。
この内乱と内紛は、幕末でも筆舌に尽くしたいものがふり、やがて水戸学の理想などどうでもよくなり、ひたすら殺し合い略奪し合うだけの、テロと略奪が蔓延する無政府状態に水戸藩はなってしまいます。
このため、水戸藩は明治後にいたるまで殺し合いを続けて人材が枯渇し、幕末ではもっとも先進的な藩の一つであったにもかかわらず明治維新と明治政府にはほとんど参加することなく終わってしまいます。
もし彼が地震で死んでいなかったら、もう少し水戸藩はまとまることができたでしょう事を考えると、大変惜しまれる死です。
そして、その死を惜しむかのように水戸には東湖神社が創られ、彼を祭神として祀っているのでした……。

住所310-0022 茨城県水戸市梅香1-1-8
アクセスJR水戸駅北口より徒歩10分

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