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会沢正志斎

水戸学はただの尊王攘夷ではなく国際関係論であったことを証明する学者

会沢正志斎は水戸学藤田幽谷門下の学者です。

水戸学というと尊王攘夷の思想と思われがちですが、その学問的指導者であった藤田幽谷も会沢正志斎も、アダム・ラクスマンが根室に来航したことに関心を寄せ、ロシアの国情、国際関係を入手できる書物からまとめて、『千島異聞』を著しています。
藤田幽谷も会沢正志斎も、学問は実学でなくてはならないという思想の持ち主であり、彼らによって水戸学はただの歴史思想の学問ではなく、救世済民と富国強兵を説いた実学として成立していくのです。
他にも会沢正志斎は1824年(文政7年)、水戸藩領大津村に食料を求めて上陸したイギリスの捕鯨船員と会見しています。その会見の様子を記した『暗夷問答』を著し、さらに尊皇攘夷を体系的にまとめた『新論』として消化させています。

尊皇攘夷は排外思想ではないことを示す『時務策』

昔から水戸は太平洋のクジラ漁に航海していた海外人が漂着することもあり、会沢正志斎らの尊王攘夷思想はけっして内向きの鎖国論ではなく、国防を主眼にしていた事は明らかです。
特に会沢正志斎は晩年に開国を説いた『時務策』を一橋慶喜提出しており、水戸学が単純な尊王攘夷思想でなかった事をうかがわせています。
晩年開国を説いたために過激派水戸尊攘派から「老耄」と罵られていますが、彼の『新論』は吉田松陰や真木和泉などに影響を与えており、水戸学が幕末思想の源流の一つにもなっていた証明にもなっているのです。

住所 〒310-0851 茨城県水戸市千波町2367
アクセス JR水戸駅より車で約13分

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