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武田耕雲斎

政治と慶喜に翻弄され天狗党の首魁として命を捨てた「水戸の三田」

水戸の三田と呼ばれた俊英とその苦渋の最後

武田耕雲斎は徳川斉昭の藩政改革において活躍した改革派の俊英の一人であり、戸田忠太夫、藤田東湖と並び水戸の三田と呼ばれた人物です。
彼自身の思想は徳川斉昭譲りの尊皇攘夷ではあるものの、一方で富国強兵を説いた穏健的攘夷論でした。
しかし天狗党の項目にも書いたように、水戸の政治情勢が紆余曲折を経た末に藩政から退けられます。また同志の多くが脱藩浪士として桜田門外の変や坂下門外の変などを起こすなど、過激化していくとともに、彼は藩主徳川慶篤から彼らの暴走を止めるように要請されますが、それがかえって彼の立場を追い詰めてしまったのでしょう。
事実、一橋慶喜の上洛に藩兵を率いて同行した彼は、徳川慶喜が強烈な攘夷論を唱えていた時期に側近として扱われており、激派の首領として認められていたことがわかります。

 

天狗党の首領となる苦渋の決断


ですが、それに呼応した藤田小四郎が筑波山で挙兵すると、それを止める側に立つという苦渋の立場に陥ります。

その結果、藤田小四郎に説得され、また一命を預ける気になったのでしょう。天狗党の首領として擁立されることになります。

このとき武田耕雲斎はすでに死を覚悟していたと言われています。
天狗党は、斉昭の子で当時は京都にいた徳川慶喜を新たな水戸藩主に据えることを目的としていました。

しかし、徳川慶喜は自ら、幕府の天狗党追討軍を率いて彼らを討伐する側に立ってしまうのです。

いわば天狗党は慶喜に見捨てられた形となってしまい、転戦しつつ西上しましたが、やがて追い詰められ敦賀の地で投降します。
彼は天狗党員353名とともに斬首されています。

ですが彼や天狗党に同情する敦賀の人々も多かったらしく、武田耕雲斎は敦賀市の松原神社の祭神として、今も祀られています。

住所 〒310-0912 茨城県水戸市見川2丁目103
アクセス JR水戸駅より車で約12分

※取材時点の情報です。掲載している情報が変更になっている場合がありますので、詳しくは電話等で事前にご確認ください。