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水戸の観光・名所・名物を巡ってみよう

藤沢山神応寺

幕府に殉じた諸生党たち幕府派の祀られた寺

江戸時代の寺社統廃合を生き残った時宗の名刹

雷神社こと別雷皇太神の隣りにある神応寺は1591年(天正19年)、水戸城下の後に藤沢小路と呼ばれる神生平(かのうだいら)に建てられたお寺です。
時宗の時宗遊行派の総本山である清浄光寺が戦国時代の戦争によって焼失したため、他阿普光は、佐竹義宣を頼って開基したのが神応寺で、つまり佐竹氏ゆかりの寺社です。

このため水戸では時宗が盛んになりましたが、その後、徳川水戸藩の時代になり、佐竹氏ゆかりの寺などが廃され、神仏習合や廃仏毀釈などが行われるなど、仏教にとっては受難の時代が続きます。

しかし、佐竹氏ゆかりの寺であるにもかかわらず奇跡的に残されたのは、水戸で時宗が盛んになっていたお陰かと思われます。その時宗が盛んであった理由も、この神応寺が遊行派総本山である清浄光寺に由来するお寺であるからでしょう。現在でも茨城県は時宗の寺院が最も多いのはそのためです。

また寺内には蹴上観音とよばれる観音像があり、九州で観音様を信仰する親子が落雷の時、観音様が雷を蹴上げてくれたので助かったという伝説からなる観音様です。おそらく落雷伝説ととなりにある別雷皇太神の雷神信仰が重なって、こちらでも雷除けとして蹴上観音が信仰されるようになったと思われます。

時宗でも有数の縁あるお寺として一遍上人像が建立されています。

蹴上観音と近くの別雷皇太神とともに雷除け参りに詣でる人が多い寺院です。

天狗党と対立した諸生党ゆかりの寺院

中に居合術新田宮流の創始者和田平助正勝、軍学者の山国兵部共昌と田丸稲之衛門直允らの墓があります。

かつては1884年(明治17年)、弘道館戦争の十七回忌に際し、元会津藩主松平容保の篆額による諸生党慰霊碑が建立されており、天狗党と対立して幕府に殉じた諸生党の歴史が刻まれた寺でもありました。

残念なこと1945年(昭和20年)に戦災で失われ、慷慨淋漓の碑拓本附台石(こうがいりんりのひたくほんつけたりだいいし)として拓本と台石が残されています。

明治政府を作った尊王倒幕派と対立したため、なにかと悪役にされがちな諸生党ですが、彼らも幕府に殉じた志士であったことは忘れてはならない歴史と言えるでしょう。

寺院には今も諸生党側の志士たちの慰霊碑が建立されています。

慷慨淋漓の碑拓本附台石は、貴重な幕府側に殉じた志士たちの気概を表す篆刻で、戦災で失われましたが、その拓本は残されています。

住所〒310-0032 茨城県水戸市元山町1丁目2-64
アクセスJR水戸駅より車で約7分

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