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水戸の観光・名所・名物を巡ってみよう

水戸空襲

水戸市街のほとんどを灰燼に帰した大空襲

日本が本土の制空権を失った1945年(昭和20年)。連合軍は精密爆撃では日本は降伏しないと考えて、東京、川崎、横浜、名古屋、大阪、神戸、尼崎の大都市7つの市街地に対して焼夷弾を中心とした夜間無差別絨毯爆撃を行ないました。

これに続いて連合軍は先の7都市に続く、59の中小都市を標的とし4日に1回のペースで空襲を行なっています。

結果として原爆の標的となった広島、長崎を除く57都市が空襲を受け、その中には水戸市も含まれていました。
1945年8月2日の大空襲に先立って連合軍は数日前にB29によって空襲を予告するビラを巻いたといいます。それらは憲兵や警察などによって回収されましたが、市民はうすうす空襲について噂が広がっていたようです。

大規模な水戸空襲と少なかった犠牲者

水戸市への空襲はマリアナ基地の第314航空団180機のうち173機が出撃、水戸上空に至り、先導機が0時31分に茨城師範学校女子部に投下したのを皮切りに、合計1152トンもの焼夷弾が投下され、2時16分まで空襲は続きました。
これは中小都市への空襲57都市の中では飛来機数で6番目、投下爆弾量では7番目という大規模なものです。
この空襲によって全市面積の35%、市街地面積の65%が罹災し、罹災戸数1万104戸(全市の90%)、罹災人員5万605人(全市の80%)、死者242人、重傷者144人、軽傷者1149人が犠牲となりました。
このため水戸市の建築物の多くが破壊されましたが、奇跡的に県庁か職員の奮闘で防火に成功し、弘道館も数人の市民の協力で焼失を免れました。
しかし、前述したように罹災戸数は全市の90%にも及び、この戦災によって水戸城や東照宮、常磐神社など水戸市の戦前の建築物のほとんどが焼失してしまったのも事実です。
罹災市民の救援活動は迅速に行われ、市民たちには近隣の村から炊き出しや乾パンの配布が行われ、焼失を免れた新荘国民学校と浜田国民学校に罹災者は収容されました。

このような迅速な対応もあって、空襲の規模や罹災人員の数のわりには人的被害が少なかったのは不幸中の幸いと言えるでしょうか?
そして、8月8日までには2837戸のバラックも建設され罹災者の居住が始まり、空襲の混乱もようやく収まろうとした8月15日。市民たちの耳には「玉音放送」による長い戦争の終わりが告げられたのです……。

住所 〒310-8610 茨城県水戸市中央1丁目4−1
アクセス JR水戸駅より徒歩で約7分

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