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徳川綱條

水戸藩の財政難の打撃を受けた不運な3代藩主

大洗磯前神社の拝殿は徳川綱條によって造営されたものです。

徳川光圀の儒教的道徳によって藩主に

徳川綱條は徳川光圀に続く水戸藩3代藩主です。

徳川光圀は自分が兄である高松藩主松平頼重を飛び越えて水戸藩主になったことに、儒教的理念から気に病んでいたのです。

そのため自分の跡継ぎを自分の子ではなく、兄頼重の次男綱條を3代藩主として継がせたのでした。
しかし、徳川綱條にとってそれは幸せだったかというと疑問です。

3代藩主綱條は人物・識見ともにすぐれた人物であったにもかかわらず、その藩主としての働きは財政難に陥っていた水戸藩の財政再建に費やされたのです。

慢性的な水戸藩の財政難と戦い続けた藩主

江戸詰めの藩士の費用、さらに「大日本史」の編纂という大事業を抱えていた水戸藩は、構造的に財政難になる傾向にありました。さらに、

綱條の代には小石川藩邸の焼失、光圀の葬礼、将軍の藩邸来臨にともなう御成御殿の新築、嗣子宗堯の婚礼と養女の縁組などが重なるなど、とにかく経費が膨大にかかる行事が続いてしまいました。

さらに再建した小石川藩邸と駒込藩邸が大地震で焼失、さらに水戸城も被害に遭い、那珂川と久慈川の水害も重なるという水戸藩にとっては実に多難が続いた時代だったのは不幸と言うしかありません。
そして大打撃を受けたのが1661年(寛文元年)に行われた幕府の貨幣改鋳でしょう。

実は初代藩主の頼房や2代藩主の光圀が大事業を行なっていても財政難に陥らなかったのは、水戸藩が幕府の公用銭である寛永通宝の鋳造を行なっていたことで、貨幣鋳造の余録がかなり大きかったのです。

それが崩壊したのですから、綱條は本当に不運な藩主と言えるでしょう。
彼は優秀な名君であったようですが、その才幹や指導力の大半は水戸藩の財政再建に費やされてしまったのでした。

住所 〒310-0011 茨城県水戸市三の丸2丁目6
アクセス JR水戸駅より徒歩で約9分

※取材時点の情報です。掲載している情報が変更になっている場合がありますので、詳しくは電話等で事前にご確認ください。

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