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武田金次郎

幕末の水戸藩の惨劇が生んだ恐怖と惨劇の申し子

明治維新の頃の水戸藩士(注・武田金次郎ではありません)

茨城新聞社刊『水戸百年』より転載(許諾 みとの魅力発信課)

世が世なら水戸藩きってのエリートとして生まれ

様々な悲劇や惨劇を生んだ日本の幕末史の中でも、武田金次郎という人物ほど闇の深い人物はちょっといないかと思われます。
武田金次郎は1848年(嘉永元年)に武田耕雲斎の孫、そして母は藤田東湖の妹という水戸藩でも最高とも言えるエリートの子として生まれます。

本当なら藤田東湖と武田耕雲斎の血を受けた俊英として、水戸学を修めて幕末に活躍していてもおかしくはない家柄でした。

しかし、幕末の水戸藩は彼がまともに育つ事を許しませんでした。

すべてを変えてしまった天狗党の乱

1864年、16歳のときに天狗党の乱が起こり、彼は天狗党の挙兵に父や祖父とともに参加することになります。

その結果、天狗党の乱の参加者346名は処刑され、父も祖父も処刑されてしまったのです。

しかし、彼は若年であったという事もあり遠島の刑とされ、小浜藩の屋敷に謹慎刑となります。

小浜藩では准藩士格として厚遇されましたが、むしろそのせいで彼は父や祖父だけでなく、水戸藩内で諸生党による凄惨な復讐刑が行われた事を聞くことになります。
祖母である武田耕雲斎の妻は、耕雲斎の塩漬けの首を抱えたまま斬刑に処せられ、その10歳と3歳の子も処刑され、吉田原にさらし首にさせられたのです。
彼が生き残ったのは奇跡といってもよく、あと少し年長であっても、年少で水戸に残されていたとしても斬刑に処せられていたことでしょう。

勅諚を盾に暴走する金次郎

しかし、その方が幸せだったとすら言えるかもしれません、一族すべてが処刑されさらし首にされた10代の若者の心はもはや復讐心しか残っていませんでした。
大政奉還が行われ1868年、王政復古が行われると、彼は朝廷から罪を許され、水戸への帰藩を命じられます。

しかも、どういうわけか朝廷は彼に諸生党討伐の勅諚を与えていたのです。
精神的に育つべき10代に天狗党の乱に参加し、周囲や一族すべてが斬刑に処せられた彼にあるのは復讐心だけでした。

朝廷の威光と勅諚を盾に彼は、藩の実権を掌握。通称「さいみ党」と呼ばれた金次郎らは、仲間や一族の仇敵であった諸生党残党に復讐を開始します。

白昼堂々と諸生党やその一族を襲撃、暗殺を繰り返し、また諸生党の残党も弘道館戦争など反撃に出たりし、水戸は明治になっても復讐と惨劇の巷となり、その中心には常に武田金次郎がいたのです。

惨めな末路と死は自業自得なのか?

そして朝廷は廃藩置県のときに武田金次郎を使い捨てにするように解任し、彼は財政的に逼迫し乞食のように流浪したといいます。

晩年は伊香保温泉の風呂番という名の、事実上の物乞いにまで身を落としていたとも言われ、悲惨だったようです。
その末路が近年史料として発見されましたが、それによると「香川が栃木県の塩原温泉を訪れたとき、物乞い同然のみすぼらしい小屋で暮らす、体の不自由な金次郎と出会った。驚き哀れに思い、香川が金銭を渡すと、金次郎は喜び、ひれ伏したという。このあと、金次郎は水戸に戻され、3か月後に亡くなった。」と書かれています。

享年48歳。


武田耕雲斎の孫、藤田東湖の甥としてきらびやかな出生をした武田金次郎ですが、その一生は惨劇と復讐と落魄だけが残されています。

確かに彼の自業自得な面もあるかもしれませんが、多感な十代の頃に天狗党の乱で悲惨な戦いを続け、周囲の仲間たちが虐殺され、家族も水戸で惨殺された事を思うと同情を禁じえません。
いったい彼はなんのために生まれ、死んでいったのでしょうか?

幕末の水戸藩の惨劇の申し子のような彼の末路は、幕末という歴史の救いがたい暗黒面を象徴しているかに見えてなりません。

住所 〒310-0052 茨城県水戸市松本町13−33
アクセス JR水戸駅より車で約9分

※取材時点の情報です。掲載している情報が変更になっている場合がありますので、詳しくは電話等で事前にご確認ください。

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