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常陸山谷右エ門

水戸が誇る名横綱はちゃんこ鍋の元祖だった!

(※画像はパブリックドメイン)

水戸の橋にも残る名横綱常陸山谷右エ門

 水戸の備前堀にかかる橋の一つに常陸山橋という石橋があり、バス停の名前にもなっています。

 この常陸山橋は、その昔、常陸山谷右エ門という横綱が私費で作ったもの。

 1912年(大正元年)、第19代横綱常陸山が先祖の墓所のある酒門共有墓地へ墓参のために、老朽化した木橋をコンクリートの石橋に建て替えてくれたものです。

 橋一つを建て替えるような豪快な伝説をもつ常陸山谷右エ門とは、どのような人物だったのでしょうか?

19代目名横綱「常陸山」は「横綱相撲」を得意とする大人気力士

 常陸山谷右エ門の本名は市毛谷右衛門、1874年(明治7年)に生まれました。

 幼い頃から力が強く体格に恵まれていた市毛谷右衛門は、怪童と呼ばれておりましたが家業が倒産してしまい旧制水戸中学校(現在の水戸第一高校)を中退することになってしまいます。

 しかし、その身体能力を惜しいと思った人々の支援を受け、彼は上京し、旧制東京専門学校(現在の早稲田大学)に進学することができたのです。

 

 彼の怪力は、40貫(150キログラム)の力石を肩に持ち上げ、58貫(217キログラム)の石を右肩に担ぎ上げたといいますから、その怪力は想像を絶するものがありました。

 そんな彼ですから、当時の身体能力の高い男の目指す花形であり、収入も多かった大相撲に心惹かれ、出羽海部屋より大相撲に入門します。

 

 1891年初土俵を踏み、1892年6月場所において「御西山」の名で序ノ口でデビューした彼は、1894年1月、出羽ノ海の現役時代の四股名を継ぎ「常陸山」に改名。

 その後、大相撲のトラブルから一度引退して復帰するなどの紆余曲折はあったものの、1901年1月場所では関脇に昇進し、8勝1分で2度目の優勝相当成績を挙げ、大関に昇進。

 1909年に第19代横綱となります。

 その取り口は、相手の十分に力を出させてから相撲をとるというまさに横綱相撲の形であり、突き出し、吊り出しが得意としておりました。

 そんな取り口ながら無敵とも言える勝率を誇り、幕内勝率は9割を超え、歴代横綱では最後の9割越えでという記録を残すほどの強さだったのですから、人気になるのも無理はありません。

あまりの人気から生まれた「相撲のちゃんこ鍋」

 その横綱にふさわしい取り口と強さ、豪快な性格から、現役時代から大横綱として人気を集めた彼の人出羽海部屋には入門者が一気に増えていきます。

 そんな入門者や客が集まる出羽海部屋では、もはや個々に配膳していてはとても間に合わなくなったので、常陸山の提案で、1つの鍋を皆で囲んで食べる形式が考え出されました。

 これが相撲界では鍋料理が定番するきっかけとなり、今で言う「ちゃんこ鍋」が生まれたのです。

 定番料理の創始者が、個人の発明として名前を残すのは極めて珍しいことですが、「ちゃんこ鍋が常陸山が元祖であった」というのはほぼ定説となっており、「ちゃんこ鍋」は水戸出身の大横綱が元祖となった料理といえます。

歴史に名を残し、人々に愛された偉大な力士

 そんな大人気の横綱であった常陸山ですが、関節炎からの敗血症のため48歳の若さで亡くなっています。

 葬儀は長年の功績を称えて史上初の協会葬として行われ、その葬列は上野駅から両国橋まで途切れることなく続いたといいますから、その人気と功績がうかがえます。

 その剛力を生かして相手に存分に相撲をとらせる取り口は、名実ともに“横綱相撲”と呼ばれました。

 相撲評論家の能見正比古は「その後、何人の横綱がこの(常陸山の)横綱相撲を要求されて犠牲となったことか」と嘆くほど、「横綱の見本」として彼の取り口が定着していたのです。

 

 今は小さな橋に名前を残す常陸山ですが、「ちゃんこ鍋」と「横綱相撲」を生み出した、史上まれに見る偉大な力士として歴史に名を残しています。

 ぜひ、水戸でも彼の功績のひとつとして「ちゃんこ鍋」を再評価して欲しいですね。

※取材時点の情報です。掲載している情報が変更になっている場合がありますので、詳しくは電話等で事前にご確認ください。

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