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水戸の観光・名所・名物を巡ってみよう

水府煙草

水戸が日本有数のタバコの名産地だったのをごぞんじでしたか?

水戸藩の財政難から始まった『水府煙草』

 

 水戸藩は『徳川御三家』の格式を35万石で維持することと、『大日本史』の編纂(へんさん)を行ったことでの慢性的な財政難にありました。当時の藩士や庶民にとっては大変だったかもしれませんが、結果として、それが水戸藩の産業発展への動機として働くことになりました。

 火打ち石西ノ内紙染め物の水戸黒水府提灯など、水戸藩は現金収入を得るために様々な事業を展開して財政難を解決しようとしています。

 こうした一連の水戸の事業の一つが、今回取り上げる「水府煙草」です。

 

 日本で煙草の生産が始まったのは、比較的新しく江戸時代の初頭の事でした。

 関ヶ原の戦い直後の1601年、スペイン人の修道士が療養中の徳川家康に煙草由来の薬と煙草の種子を献上したという記録が残っており、これが煙草の日本伝来であると伝えられています。

 

 水戸での煙草の栽培は、それから約200年後の江戸時代の1832年のことです。

 その経緯は昭和18年に出版された『郷土読本』にこう書かれています。

 

「その後、天保二年(1832年)たまたま多賀郡川尻濱に沖縄人が漂着したことがある。彼等の喫(の)んでいた煙草は味も香りもたいそう良いものであったので、産地を訪ねたところ、薩摩の国分と判った。間もなく、薩摩の役人がその沖縄人を引き取りに来たので、水戸藩では国分の煙草を送って貰いたいと頼んだ。まもなく煙草の種が届けられた。それで水戸藩ではこれを町屋の和田治兵衛に与えて耕作させた」

 

 こうして始まった水戸の煙草栽培でしたが、気候や土壌が合っていたのか、水戸の煙草は『水府煙草』として江戸の庶民の間で有名になっていきます。

 

 後の幕末の頃には、水戸の祝町遊郭(現在の大洗にあった遊郭で、関東3大遊郭と呼ばれた)にいた遊女「雲井」が、自分の源氏名を銘柄にしたオリジナル煙草を作り、馴染み客に配るというサービスを行うほど水戸の煙草は高く評価されていました。

 やがてこの煙草が、「雲井」と呼ばれるようになり関東一円で人気を集めます。

 「雲井」は名実ともに最高級銘柄の煙草として、明治の頃まで残っています。

 

『吾輩は猫であるにも登場』した水府煙草『雲井』

 

 夏目漱石『吾輩は猫である』にはこんなシーンがあります。

 

「あの東風と云うのを音で読まれると大変気にするので」

「はてね」と迷亭先生は金唐皮の煙草入から煙草をつまみ出す。

「私の名は越智東風ではありません、越智ですと必ず断りますよ」

「妙だね」と雲井を腹の底まで呑のみ込む。

「それが全く文学熱から来たので、こちと読むと遠近と云う成語になる、のみならずその姓名が韻を踏んでいると云うのが得意なんです。」

 

 この雲井という煙草こそ、前述したように水府煙草の銘柄です。

 この別名が煙草として通用していたというほど、当時は「雲井」と「水府煙草」がいかに普及していたかがうかがえます。

 さらに明治40年には水府煙草は御料煙草として使われることになります。

 特に水戸の「水府」と鹿児島の「国分」の2つが良品と評価され、専売局に設けられた専用の製造ラインで、「御料煙草」が作られるまでになりました。

 昭和の頃までは、『恩賜の煙草』として功績のあった人物や団体に皇室から煙草が下賜される制度がありましたが、その生産地の一つは水戸だったのです。

 

 現在では、国産煙草こそつくられてはいませんが、茨城の坂東市などでは洋タバコである「バーレー種」が栽培されており、全国でも有数のタバコ生産地としてその名残りをとどめています。

 

 江戸時代には最高級品として扱われ、明治後には皇室にも献上されて『恩賜の煙草』にもなった水戸の煙草は、まさに日本の喫煙文化の担い手であったと言えるでしょう。

※取材時点の情報です。掲載している情報が変更になっている場合がありますので、詳しくは電話等で事前にご確認ください。

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