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河和田城跡

戦国時代の水戸は佐竹氏ではなく常陸江戸氏が支配していたのです!

茨城県水戸市河和田町にある河和田城は、1336年に河和田入道こと鍛冶弾正貞国によって水戸城の支城として築かれた城です。

当時の水戸は馬場城(水戸城)の大掾氏によって支配されており、その支配下にあった鍛冶弾正貞国が、河和田を本拠地として築いたわけです。
こうして上杉禅秀の乱による功績で、河和田を得た常陸江戸氏の拠点として、河和田城は栄えました。

戦国時代の水戸は常陸江戸氏の支配下にあった!

戦国時代の茨城というと佐竹氏を思い浮かべる人も多いため、水戸も佐竹氏が支配していたように思われがちですし、ゲームや本などでもそう設定されていることが多いです。
しかし、戦国時代に水戸を支配していたのは常陸江戸氏であり、水戸は水戸城よりも河和田周辺が中心地として栄えていました。

当時を偲ばせるものとして河和田の地には、鹿島灘で採れた塩を栃木や群馬方面にまで運んでいた塩街道や、河和田の唯円に由来する法喜山報仏寺などが遺されています。

佐竹氏が水戸を支配したのは、戦国時代が終わろうとしていた豊臣秀吉の小田原攻めの後であり、水戸城が佐竹氏によって陥落したのもその後です。

この時期にいち早く秀吉に臣従した佐竹氏が、その後ろ盾を得てようやく水戸城を陥落させることができたのです。
つまり、戦国時代の大部分は常陸江戸氏が水戸を支配していたのであり、このあたりは、全国的にも、いや水戸人でさえも多くの人たちが誤解していることと言えるでしょう。
そんな常陸江戸氏の拠点であった河和田城は、南北600m、東西500mの大きさを誇る勇壮な平城でした。
現在の報仏寺、天徳寺、八坂神社、河和田小学校を含んだ大規模なものであり、それぞれの地に河和田城の遺構が遺されています。
しかし、これほどの規模をもった河和田城も、江戸氏水戸城が秀吉の後ろ盾を得た佐竹氏によって落とされると、その後わずか一日で陥落してしまったと言われています。
その後、河和田城は廃城となり、現在は住宅地や寺、小学校や水田となり、河和田城を示すものは石碑と遺構のみとなっています。

住所〒311-4153 茨城県水戸市河和田町
アクセスJR水戸駅より車で約17分

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