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赤沼牢屋敷跡

佐竹時代から続く水戸の牢屋敷跡と天狗党の惨劇

赤沼牢屋敷は江戸氏を滅ぼした佐竹氏が水戸に本拠を置いた時に造成したと言われる牢屋敷の跡地です。

赤沼牢屋敷の由緒によると、このうち大牢が佐竹氏の頃からあったと書かれています。

大牢とは庶民たちが押し込められた獄の事を指しますので、庶民などの牢が佐竹氏の時代から続いていたことがわかります。
その後、武士や僧侶などの身分の者が積められる揚屋、新牢、つめ牢などが造成され、水戸藩の時代を通じて牢屋敷として使われていました。
江戸期を通じて赤沼牢屋敷は純然たる牢屋敷であり、重い罪人の処刑は千束ケ原などで行われていました。

天狗党の乱で牢屋敷が虐殺の現場へ……

それが一変したのが幕末の天狗党の乱の頃です。

この天狗党の乱では参戦した者の多くは敦賀で処刑されたのですが、惨劇たる所以は当時の慣例として天狗党の乱に参加した者たちの妻や子、一族などが連座して処刑されたところにあります。
このため赤沼牢屋敷はそのまま処刑所として使われるようになってしまいました。

天狗党関係者とその妻や子たちがハリツケや斬罪に処せられ、その数はなんと350人にも上ったのです。

特に天狗党の首魁されされた武田耕雲斎の妻と子の処刑は悲惨を極め、妻はなんと夫の塩漬けにされた首を膝に抱え込まされたまま斬首されました。

その子である10歳と3歳の子も斬首され、耕雲斎の妻の首とともに吉田の原に晒し首にされたのです。
もちろん江戸の法令にも夫の首を抱えて処刑するなどという法は存在していません。

完全な天狗党に対する諸生党の復讐とも言える酸鼻を極めた処刑でした。
350名もの罪もない女子供も含めた処刑は、水戸の城下でもトラウマになってしまったようです。

水戸城下では明治、大正になっても、豆腐をサイの目に切るのを嫌い、銭湯で濡れ手ぬぐいの端を両手で持ち、音を立てて広げるのを嫌がったそうです。
というのも死刑囚は処刑される朝に必ずサイの目に切った豆腐汁が出されたことと、濡れ手ぬぐいを広げる音が首を刎ねる音に似ていたからだそうです。
まさに水戸中の人々たちの恐怖させた惨劇がこの赤沼牢屋敷で行われたのでした。

住所〒310-0818 茨城県水戸市市東台2丁目8
アクセスJR水戸駅より車で約6分

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