まいぷれセレクション
あなたの知ってる偕楽園、知らない偕楽園を大特集!
早春を告げる水戸の梅まつり。
梅まつりといえば偕楽園と全国的に有名な水戸の一大イベントですが。
知っているようで案外知らない偕楽園について、もっとよく知って偕楽園を楽しんでみませんか?
これを読めば、もっと偕楽園と梅まつりが楽しくなる10のヒミツについて、大特集してみました!
偕楽園は天保13年(1842年)に水戸藩の第九代藩主水戸斉昭こと徳川斉昭によって造園された水戸藩ゆかりの庭園です。
偕楽園の名称は、中国の古典である『孟子』の「古の人は民と偕(とも)に楽しむ、故に能く楽しむなり」という一節からとったもので、徳川斉昭公の著書である『偕楽園記』では「是れ余(斉昭)が衆と楽しみを同じくするの意なり」と、述べています。
初めの頃は入園できるのは神官や修験者、僧侶など宗教関係者に限られていましたが、次第に庶民一般でも入ることができるようになり、他国の者でも許可制でしたが入園することができました。
身分制の社会であった江戸時代においては、今日でいう「公園」として、身分を問わず楽しむことが出来た庭園は極めて珍しく、困窮状態が続いた水戸藩を立て直した斉昭公の民を思う姿勢が伺えます。
日本を代表する花というと桜を思い浮かべる人が多いと思います。
しかし、万葉時代には、中国から渡来した梅が桜の歌数の3倍の119首も詠まれているのです。
中国から遣唐使によって渡来した「梅」は、中国文化を師とした日本の文化人にとっては特別の思いのある花であり、また冬の終わりに散ることから南国では雪の名残りにも例えられ、厳しい冬に思いを馳せる季節の花でもありました。
そんなことから学問の研鑽の度合によって、梅の開花に遅速があるといわれ、「 好文木(こうぶんぼく)」という異名で文化人たちに親しまれました。
中国渡来の「儒学」や「尊皇攘夷」の教えを重要視した水戸斉昭こと徳川斉昭公や水戸藩の藩士たちが桜よりも梅を愛したのは、そのような古来の文化からです。
もちろん、梅の調味料や薬としての働きから、救荒作物として実用的にもなる、まさに花も実も備えた梅の木は、幕末直前の動乱の時代にはピッタリの木でした。
前述したように「好文亭」の名前の由来は、梅の開花具合が学問の進捗を表したという言葉「好文木(こうぶんぼく)」から来ています。
まさに「好文木」たる梅を見ながら、水戸藩士や学者たちが好文亭において学問や茶会などの文化的研鑽を繰り返してきた歴史ある建築物が好文亭です。
入ってみると、内部が余りにも暗いという事に思い至るでしょう。華麗な梅園の明るさとは対照的な、この陰翳こそが、まだ灯火が少なかった戦国時代から江戸時代にかけての茶人や武人たちが大切にしてきた、日本の古典的な美意識です。
外の日本庭園の明るさと部屋の内部の陰翳の対比こそが、古来日本人が大事にしてきた風景であり、本来の古典的な茶室や部屋や襖絵の楽しみ方です。
そして階段を上ると一転して強烈なまでの光のある光景、梅園と桜山と千波湖の絶景が広がります。
それはまさに中国の山水の境地であり、階下の陰翳と階上の絶景の光、この陰陽対比こそが日本や中国の人たちが大切にしてきた東洋の古典的美意識です。
日本の美術には、「歳寒三友」という言葉があります。「歳寒三友」とは厳冬の季節に友となる、松・竹・梅の三つの植物のこと。中国の文人画によく見られる画題で、松と竹は寒中にも色褪せぬまま極寒に耐え、また梅は寒中に花開きます。
これらは「清廉潔白・節操」という、中国の文人の理想を表現したものと認識されていたものです。
平安時代、遣唐使などによってその美意識は日本にも受け継がれており、「歳寒三友」というのは日本の文人たちの理想とされ、さらに江戸時代には盛んに絵などに描かれた題材として「目出度い」ものとされています。
偕楽園は、その「歳寒三友」という古来の文人たちの美意識を取り入れており、偕楽園の表門から入ると、まずは竹林を見ることが出来ます。
そして、順路を進むと梅林が広がり、さらに千波湖を見晴らす高台には見晴らし広場の松、南崖の松などを見ることができます。
江戸時代の学者や文人たちは、これらに「歳寒三友」を思い、庶民たちは「松竹梅」のめでたさを思ったことでしょう。
偕楽園のテーマの一つに中国文化、日本の陰陽思想の2つを表現した「陰と陽」の世界観があります。
大きなものとしては、偕楽園の表門から入場すると、静かで仄暗い竹林から始まるので、少し不安さえ覚える人がいるでしょう。そこから進んでいくと、一転してパッと華やかな梅林が広がっていきます。
普通に梅林から入るよりも、竹林の静けさや暗さから、一点して賑やかな白と紅の梅園が広がる精神と視覚の落差が偕楽園の醍醐味であり、本当の美しさでもあります。
ぜひとも偕楽園は少し不便ですが、表門から入るのをオススメします。
そして、偕楽園の好文亭も、一階部分は陰翳と狭苦しさの目立つ静けさの茶屋になっています、それが二階に上がると一転して千波湖まで広がる借景の見晴らしを眺められるのです。
まさに陰と陽のコントラストが偕楽園、徳川斉昭公、そして水戸人の美意識であることがわかるでしょう。
大理石で作られた美しい井筒から絶え間なく湧き出る清水。これは偕楽園を造園し、好文亭を建築した水戸斉昭こと徳川斉昭が、好文亭の茶室何陋庵(かろうあん)の茶会で使うための水を運ばせるために作られた泉です。
「夏なお冷たく、玉のような澄んだ水をたゆまなく吐くので吐玉泉と名づけられました」とよく説明されますが、吐玉泉にはもう一つ意味があります。
古代の『聖迹図』には「孔子生、見麟吐玉書(孔子が生まれる時、麒麟が玉書を吐いた)」と書かれています。
つまり、吐玉泉は、この故事に因んだものであり、ただ水を吐く泉としてだけでなく、儒学の理想と教えの湧き出る泉となれ、という思いを込めて斉昭公はこの泉を『吐玉泉』と名付けたのです。
そうして見ると、吐玉泉の水には、学問や知恵のご利益があるように感じられます。
中国庭園には大きな、池・石・木・橋・亭、五つの要素を組み合わせることが必要です。
世の中に存在しない仙土・桃源郷を現実化させることであり、 この五つの要素はどちらに欠けても、中国庭園になれません。
水戸の地図を見ると、偕楽園は千波湖を大きな『池』として見立て、千波山を大きな『石』に見立て、多くの梅林を『木』として、上市と下市をつなぐ「柳堤」を『橋』と見立て、好文亭、あるいは水戸城を『亭』と見立てた構造になっている事がわかります。
中国の文化人たちが、「仙土・桃源郷を現実化させること」を目的に庭園を造ったように、徳川斉昭公は、水戸は「仙土・桃源郷」と呼ばれるような街にするために数々の施策を行っていたのです。
水戸はそんな偉大な水戸藩藩主の思いを今も受け継ぎ、発展し続けているのです。
偕楽園は2019年11月から社会実験として、好文亭内にひと休みできる喫茶スポットを設けました。
好文亭といえば、日本でも「徳川斉昭公が作った名建築」として有名であり、その内部も外の眺めも絶景なことで知られています。
これまでは見学のみでしたが、好文亭でゆっくりお茶を楽しめるのは素敵なことですね。
好文亭の入場料は別途必要ですが、偕楽園巡りには欠かせない魅力的なスポットになりそうです。
せっかく水戸の偕楽園に来たなら、ぜひ偕楽園や水戸藩にちなんだお土産を買って帰りましょう。
伝統ある銘品や、話題作りに一役買うような変わったものまで、様々な水戸の名物を集めてみました!
水戸は観光名所だけでなく、グルメの街としても発展しているのをご存知でしたか?
もちろん納豆だけではありません!
あんこう料理、常陸牛、創作料理、太平洋で採れたての海鮮や江戸前ならぬ「水戸前お寿司」などなど。
偕楽園に行ったなら、ぜひ味わってもらいたい、水戸ならではのグルメなお店をご紹介します。
偕楽園近くや大工町、水戸駅近くなど、偕楽園からのアクセスを中心にチョイスしてみました。
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