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【水戸】水戸の観光名所・名物ベスト100【観光・名所・名物】

【水戸】水戸の観光名所・名物ベスト100(41位~50位)【観光】

水戸生まれ水戸育ちの生粋の水戸っぽたちが真面目に選んだ水戸100選

第41位 くれふしの里古墳公園

 

水戸市と言ったら「偕楽園」「千波湖」「水戸芸術館」など市外の人でもわかる「わかりやすい観光地」が有名ですが、この「くれふしの里古墳公園」は市内の方でも知らない人もいる「穴場スポット」です。

 

市街地から離れているため緑が豊かで、前方後円墳6基、帆立貝形前方後円墳1基、円墳9基で構成されており、ごく狭い範囲に多数の前方後円墳が集中するユニークな古墳群として注目されています。

第42位 三の丸県庁舎

 

現在では未来的な高層ビルディングに移設されている茨城県庁ですが、かつては水戸市の中心部である三の丸は弘道館の裏手に県庁舎がありました。
未来的なビルの茨城県庁とは対照的に1930年(昭和5年)に建設された三の丸県庁舎は、置塩章が設計した昭和モダンなレンガを思わせる茶褐色のスクラッチタイルの建築物になっています。
中央の塔舎には、茨城県のシンボルであるバラをモチーフにしたレリーフがあり、バラを思わせる装飾もされています。その内部は白黒の大理石を用いた玄関など、非常に重厚な作りになっており、見る者を圧倒してくれます。

 

第43位 水戸城薬医門大手門など)

 

水戸城はあまり有名ではありませんが、那珂川と千波湖を要した典型的な水城であり、東北への要害として屈指の実用的な城でした。

残念ながら戦災によってほぼ消失してしまっていますが、かろうじて残された城址や再建されつつある大手門などがあり、水戸城を再評価する機運が水戸では起きています。

第44位 備前堀伊奈忠次

 

備前堀は1610年に初代水戸藩主徳川頼房が伊奈備前守忠次に命じ作らせた、千波湖の治水と水戸周辺の農業用水として作られた用水路です。

千波湖と那珂川水系により、豊富な水量を誇る水戸は、一方でしばしば那珂川水系や千波湖の氾濫に悩まされる土地でした。
千波湖や桜川の氾濫防止と、その豊富な水量による灌漑目的で作られた備前堀は、完成まで一年以上かかったと言われていますが、この完成により水戸は徳川家の藩領にふさわしい地になったと言えるでしょう。まさに水戸の農業を支える重要な用水路です。

第45位 渋井の土壇場吉沼磔刑場

 

ある意味、水戸の心霊スポットとしては最強かもしれません。

吉沼磔刑場では磔の刑が行われ、その至近距離にある渋井の土壇場では、斬首刑が行われて、その死体がうめられました。

幕末、天狗党の乱の参加者だけでなくその家族をも数多く犠牲になって、そのままここに埋められたという記録があります。

なんと昭和のころまで白骨死体が見つかったと言われる恐ろしい処刑場だったここは、今は平和な田園風景の緑地となっています……。

第46位 水戸市平和記念館水戸空襲日立艦砲射撃

 

戦災の影響は水戸にも及びました。

水戸市への空襲はマリアナ基地の第314航空団180機のうち173機が出撃、水戸上空にいたり先導機が0時31分に茨城師範学校女子部に投下したのを皮切りに、合計1152トンもの焼夷弾が投下され2時16分まで空襲は続きました。
これは中小都市への空襲57都市の中では飛来機数で6番目、投下爆弾量では7番目という大規模なものです。

茨城県は広い海岸線を持つ県であり、日立市と勝田市(ひたちなか市)には日立製作所の工場地区があったため、これを沈黙されるために日立市を標的とした艦砲射撃が1945年(昭和20年)7月17日深夜から7月18日未明に至るまで艦砲射撃が行われました。

この艦砲射撃は水戸市内にも吉沼地区も被弾し21名の死者を出しています。

第47位 水戸市内原郷土史義勇軍資料館満蒙開拓青少年義勇軍

 

 

1931年(昭和6年)に起きた満州事変から1945年(昭和20年)の日本の太平洋戦争敗戦時に至るまで「満蒙開拓団」と呼ばれる入植者たちがいわゆる「満州国」に送り出されました。
そんな中で「満蒙開拓青少年義勇軍」という制度が生まれました、これは日本内地の数え年16歳から19歳の青少年を満州国に義勇軍として送り、入植と治安維持に当たらせようという制度でした。1938年(昭和13年)から1945年(昭和20年)の敗戦までの8年の間に8万6530人の青少年が送られましたが、その全国でも唯一の訓練場が水戸の内原にあったのです。

第48位 別雷皇大神

 

偕楽園の北、で水戸の歓楽街大工町のすぐ近くにある別雷皇太神は、あまりにもなにげない街中に位置する神社ですが、実は関東三雷神の一つであり、佐竹氏、徳川氏の産土神として信仰される由緒ある神社です。
祭神は別雷命でご利益は雷難消除、武運長久。
古くから関東では「水戸の雷神様」として崇められてきたこの神社は、桜田門外の変の水戸浪士たちが成就の祈願をこめたという、まさに武運の神様です。

第49位 加倉井砂山日新塾

 

水戸でも知られていませんが、水戸にも吉田松陰になれたかもしれない偉大な教育者がいたのです。

加倉井砂山は水戸市成沢町にある私塾日新塾を父から受け継ぎいだ教育者です。

その日新塾は江戸時代後期、成沢村の加倉井砂山が創立した私塾で、身分や出身にこだわらず、人それぞれの個性を大事にするという、加倉井砂山の教育方針によって、さまざまな科目の教育が日新塾では施されました。

中でも、男尊女卑の思想が激しかった江戸時代において、いち早く女子教育をしたことは画期的と言えるでしょう。

 

 

第50位 こんにゃく

 

なにげなく食べられているこんにゃくですが、実はこれが普通に食卓に並ぶようになったのは、江戸時代の水戸藩の農民、中島藤右衛門の功績なのです。

伝統料理では珍しく個人の名前が残っている食べ物が水戸藩にはあったのでした。

 

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